• ありがとうのバトン

    2011/02/17

    みなさんはよく泣きますか?
    わたしは、それはそれはよく泣きます。
    さっきも、税理士さん事務所から帰る車中で
    ふいに、涙が溢れて来ました。
    お世話になり多くの学びを頂き、永遠の憧れの
    ご夫婦のことを思い出したからです。
    わたしは大学を卒業してから、
    ある広告代理店に就職して企画の仕事をしていました。
    その後結婚して仕事もフリーランスになって
    鉄道会社のPRのためのタウン誌を編集していました。
    こういうタウン誌が地元にもあったら愉しいね
    と仲間に呼びかけて
    資金ゼロで地元タウン誌を立ち上げたのです。
    30歳のときです。
    そのとき
    子どもたちに町の歴史を繋いでいただきたいと
    原稿をお願いしたのが
    前述した、のちに憧れのご夫婦となる
    作家の中野隆夫先生ご夫妻でした。
    面識もなく紹介者もなくバックグランドもないのに
    図々しくお願いに上がったわたしたちの話を聞き入れて下さって
    その後10数年に及ぶ長い期間、
    わたしがヨガのほうが忙しくなってからも
    タウン誌が廃刊になるまで毎月毎月、
    町の昔話や伝説や、昭和初期の出来事などを
    文と絵に込めて提供くださったのでした。
    中野先生は17歳の多感な頃、病気のために動けない身体になりました。
    動かすことが出来るのは首から上と、右腕のヒジから下だけ。
    その右腕も指先が変形していていました。
    思春期に身体の自由を奪われた悶絶する苦悩は
    のちに著書を読んだり、会話の中で知ったことでした。
    父より少し年上の先生は冗談好きでチャーミングな方でしたが
    畏敬の気持ちを抑えられなくなるような
    深く厳しく神聖な湖のような魂の方でした。
    そんな先生と恋に落ちた奥様は敬虔なクリスチャンで
    生涯動けない先生の手となり足となり過ごされました。
    やさしく包み込むような愛に溢れ
    マリア様のような方でした。
    わたしはときどき先生に叱られてシュンとなるのですが
    慰められ心を軽くしてくださったのは、決まって奥様でした。
    書斎の大きな窓は、いつもピカピカに磨かれてありました。
    先生にとって、この窓から繋がる世界が外の世界のすべてです。
    ガラスに曇りや澱みがあったことは一度としてなく
    奥様の先生への愛を象徴するかのような澄んだ光がいつも流れ込んでいました。
    あるとき、何故ここまでわたしたちによくして下さるのか
    聞いたことがありました。いただいたお心をどうお返しすればいいのか
    考えつかなかったからです。
    「若い頃に多くの先輩に支え救っていただいて
    今日の私たちがあります。先輩たちにいただいた幸せを
    あなたたち若い人にお返ししているだけです。
    もし、いま、あなたが幸せを感じているのなら
    わたしたちにではなく、あなたが幸せを分ける力を持ったときに、
    どうぞあなたの下の世代の方々にお返しください」
    そうおっしゃったのです。
    この言葉はわたしの中へカチッと音を立ててセットされたのがわかりました。
    「はい。約束します」。
    中野先生が亡くなられて7年、奥様が亡くなられて4年になります。
    一生懸命、情熱を持って歩む人を応援したり
    若い人たちと一緒によくごはんを食べたり
    誰かと誰かを繋ぎ会わせようとしたり
    それは、当時の約束を大切にしているから。
    そして中野先生ご夫妻に近づきたいという心がすべてなんです。
    いただいたバトンを、次の走者に手渡しているの。
    多大な影響をいただいたと
    今さらながら思い返して泣くんですよね~。
    $みろくの世へ∞祈りのヨガ∞
    $みろくの世へ∞祈りのヨガ∞
    ↑中野隆夫作品は著書も絵も高石市図書館で保管・展示されています。

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